情熱と挑戦・本物を次代に伝えるわたしたちの情熱

いつの時代も変わらない本物の良さを、次代へ"/

現代では、希少な伝統染色法となった「硫化染め」と「注染(本染め)」にこだわった製品づくりを行う、武田染工場。その品質を陰で支え続けているのが、染物職人の方々です。季節や日によっても異なる気温や湿度を見極め、微妙な匙かげんで作業する染物職人の技は、長年の経験による知識と、そこで培われた直感のたまもの。年月とともに味わいを増す武田染工場の製品は、そのひとつ、ひとつが、この職人技と、手間ひまかけた昔ながらの工程、そして、お客様の愛着リレーが共に育む〈時の贈りもの〉です。

今回は、「手ぬぐい職人」として半世紀を超え、今なお現役で活躍する高橋 亨さんと、伝統を現代に活かした新しい染物の可能性に挑戦する、「袢纏職人」の本田 賢一郎さんのお二人に、次代へ伝える本物の素晴らしさを、それぞれの情熱で語っていただきました。

職人のチカラ・高橋亨

職人歴55年。私の体の芯までどっぷり本染めです

この世界に入ったのは、中学を卒業してすぐ。叔父の紹介でした。もちろん、最初は住み込み。水を扱う仕事なので、夏はともかく、冬場はきつかったね。染めは、自然水や井戸水じゃないと駄目。水道水はカルキのせいで色が抜けるんです。工場のあるこの辺りは、広瀬川から水を引いた七郷掘があって、昔は染物屋も多かったね。私はいまは手ぬぐい専門ですが、当時は神社幕や袢纏、風呂敷など何でも担当してました。干し場の足場も丸太で、クルクル回転するので、落ちて怪我する職人も多かったから、冬も靴下もはかずに作業してました。

昭和30年代になると、一日300反もの仕事があって、毎日が残業。「洗い」も、竹1本に生地を巻きつけて行う力仕事でした。冬は突然の雪で、夜中に起きて干し場に慌てて駆けつけることも。思えば、私の体も本染めと同じ、どっぷり仕事漬けの55年間ですね(笑)。

高橋亨・作業①
株式会社武田染工場・染物職人高橋亨
1944年生まれ。中学卒業後、武田染工場へ弟子入り。以来、55年に渡り、武田染工場の染師として第一線で活躍。当時にしては珍しい身長175センチを超える大柄な体格と豪快な人柄は、社内の重鎮的存在。

次代に学ぶ謙虚さと、時代に応える誇りを

高橋亨・作業②

最近は、お客様の色の好みも、ずいぶん華やかになりましたね。染めの面白味は、染料同士が化学反応して、全く違う色になるところ。私の染料の知識は、メーカーの営業さんに質問したりして、独学で学びました。染料によって溶剤に溶けにくい色や、澱みが出やすいものもあります。調合によっても異なるので、今は自分なりの〈色見本帳〉を作成しています。時代の好みの変化にともなって、いまは染料が廃版になるケースも多いので、長年の経験値からデータも随時、差替えてます。今は、何と何を調合すればこの色になるか、ある程度は分かりますね。

私の子供時代はね、自分でモノをつくって遊ぶしかなかったでしょ(笑)。手先の器用さも、モノの設計を理解する思考も自然に育まれました。だから、染色の機械も全部自分で修理できたんです。「糊付け」も、見習いは昼休みを返上して、とにかく練習、練習。昔の職人は全部、体で覚えました。どんな色の注文が来ても動じない、という自信はね、そういう姿勢からきた職人の誇りみたいなもんです(笑)。

自分のやるべき事を、責任を持ってやりぬく、というあたりまえ

いまは毎年、新しい染料が出てきて、1本の手ぬぐいの中に、取扱いの違うものが混在することもあります。染料はデリケートでね、うまくやらないと固まったり、暑い夏場はブクブクと発酵したりするので、氷で冷やしながら作業をすることもあるんです。染めは、一旦、始まると集中力で一気に仕上げなくちゃならないんです。やり直しはききません。だから私は朝早く来て、まず、その日の段取りを頭に入れてます。そのせいか家に帰ると、歳のせいもあって、もうグッタリ(笑)。

仕事をするうえで、私が心に置いているのは、どんな条件の下でも常に同じ品質を保つこと。私が目指すのは、ただシンプルに自分の技術を高めることだけ。不器用かもしれませんが、昔ながらの職人とは、そういう世界。いま目の前にあるやるべきことを、責任と誇りと自信をもってやり遂げる。会社とかチームはね、詰まるところ、独りの集まり。個々の意識が、全体の品質なんです。できる人と、できない人の違いは、努力の差だけじゃないのかな(笑)。

高橋亨・作業③
職人のチカラ・本田賢一郎

飛び込んで初めて知った、染師の過酷さと醍醐味

もともと好きなモノづくりへの興味から、この仕事に就いて、もう15年くらい。いまは帆前掛けと袢纏を担当しています。実際、染物がこんなに手間がかかるとは驚きましたね。例えばジバキという、土の上に生地を広げて空気で酸化させる工程があるんですが、土まみれになった生地を、最終的に洗ってきれいにして売るとは、想像もしていませんでした(笑)。この仕事は、第一に体力!さらに繊細さも重要です!細かいところに目配りができないと、必ず製品に響いてきます。学生時代は体育会系でしたが、正直、体はこの仕事で鍛えられた感があります。

大変とはいえ、やり甲斐は大きいです。竿灯まつりの袢纏など、自分の手掛けた製品がテレビで紹介されているのを見ると、素直に嬉しい。それまで、日本文化の継承について考えたことはまったくありませんが、自分で製品をつくる立場になったいま、その想いは強くあります。

本田賢一郎・作業①
株式会社武田染工場・染物職人本田賢一郎
1971年生まれ。高校卒業後、一度、就職したのち武田染工場に転職。若い頃から創作に興味を持ち、手仕事によるモノづくりや、ざまざまな表現活動を経て、現在の仕事に至る。影響を受けた人物は、インドの詩人で思想家のラビンドラナート・タゴール。

後進を育てるという使命感が、自分を育ててくれました

本田賢一郎・作業②

最近は少し、自分自身の意識も変わってきましたね。穏やかになったというか(笑)。人に教える立場になったことも、大きいかもしれません。私の見習い時代は、教えられるというより、見て盗めという厳しい指導でした。もちろん、そういった環境でしか学べないこともあります。でもいまは、意識して若手に教える機会をつくっています。

職人の世界は、昔はすべて個人の勘に頼っていました。でも、ある程度のデータを蓄積することで、製品の安定した品質が保てるようになります。その基準を若手が覚えることで、上達も早くなります。いまは染物屋自体の数も少ないですし、そこで働く人間の数も少ない。生き残っていくためには、昔のものを守りながら、新しい風も起こしていかないとなりません。業界的には、会社も東北という市場で旗を振らなければならない立場だと思っています。染物を知らない若い人にも、染物の何かを知って欲しい。興味を持ってもらうことから始まると思いますから。伝統文化の継承も考えつつ、そのなかで自分のやりたい事も叶えたいと、いまはそういう気持ちです。欲張りでしょうか(笑)。

古くて新しい、可愛くてカッコイイ、そんな染物ブランドの発信を

社長のように、私自身も「武田染工場」のブランド化を目指したいと思っています。例えば、帆前掛けを活用した、女性からも支持される製品の開発などです。既存のアイテム以外に、染物の可能性はもっと広いと思います。個人的に絵も好きですし、趣味でカメラもやっています。勉強になりそうなものは、ジャンルを問わず積極的に見に行ったりもしています。自分の友人も手仕事をしている人間が多いので、そういった異業種とのコラボレーションも面白いかもしれません。

プリント印刷を否定するわけではありませんが、比較して見ると、やはり伝統染色の染物は〈本物〉。使い古して味が出るのも、カッコイイ。むしろ、自分に馴染んできたくらいが、ちょうどいいくらい(笑)。

私にとって〈伝統染色〉とは、絶やしてはならない魅力的な日本文化なんです。その継承のためなら、ちょっとカッコつけますが、自分の活動は歯車でもいいかな、くらい肩入れしてます(笑)。後に遺していくものを背負っているという誇りが、いまの私の原動力ですね。

本田賢一郎・作業③